そろそろ17年田んぼ日程を。
半農半あきないを志向して5年目
半農半あきないと銘打って、平日家業、週末小さな田でのコメ作りという生活を始めて5年目になりました。
(昨年のはぜ掛け。雨天が続きなかなか脱穀できなかったのが記憶に新しい)
最初の3年はいろいろとわからないことが多く、いつもハラハラ心配をしていました。
最近はだいぶ余裕が出てきたというか、田んぼが習慣になってきたのでしょうか。
まだまだ自分の目指す最終形にはなってませんが、とにかく継続していくことで何か開けてくると思っています。
人が集いワイワイ言いながら身体性、感性を保つ田んぼに
食に対する意識(農薬を使わないとか、体に安全なものを口にするとか)ももちろんあります。
それよりも「人がつながる田んぼ。集う人が心開いてほっとする田んぼ。」という場を持ちたいというのが一番の動機になっています。
ウンチクは置いておいて、そろそろ今年の田んぼ日程を
今年もイセヒカリを作りたいと思います。
3年目からイセヒカリを作っています。
コシヒカリほど粘りはないのですが、喉をすっと通っていく感じで結構好きです。
去年引っ越した地域(宇部市小野)で、餅つきにも誘っていただくようになったので、
今年はモチ米も作りたいねーという話も出てきます。
(始めてみた餅つき道具)
力まず淡々と、しかししっかりと地に足つけて丁寧なコメ作りにしたいと思っています。
嬉しいお言葉
あれから1年
「あきない」の方が、新たな展開を次々に迎えており、気が付くと最後に記事を更新してからほぼ1年が経とうとしていたようです。
時の速さに圧倒されます。
(今年のイセヒカリ)
お客様より嬉しいお言葉が
先日、会社(三邦コーポレーション)にお電話いただいたお客様から、このブログを読んでいるという嬉しいお言葉をいただきました。
「半農半あきない」は私の生き方で、直接仕事などでは関係ないのですが、三邦の商品を使ってくれているお客様が見てくれていたというのは、じんわりと嬉しさを感じます。
今年のイセヒカリ、順調です!
本業でコメ作りをしている方からは、私のコメ作りは「お遊び」程度です。
たとえ趣味やお遊びでも、「できる限り自然に即したコメ作りを継続していく」という「生き方」「取り組み」には意味がある!と言い聞かせて、何となく力まずにやっています。
今年は7月の梅雨明けから、猛暑快晴が続き、山からの一番水をいただいている我が家のイセヒカリは順調です。
(妻が「キラキラ祭り」と読んでいる鳥よけテープ)
(イノシシくんが入らないようにネット設置済み)
今年も、あと1か月もすれば、黄金色の稲穂に会えそうです。
稲刈り二日目。
今年(2015年)は、9月21日の「敬老の日」に稲刈りをスタートしました。
お天気の関係上日程が確定できないのですが、
翌日の二日目も、幼稚園でご縁をいただいた3家族が宇部の山奥に駆けつけてくれました。
皆さん、初めての手刈りということで、ワイワイガヤガヤ楽しみながら刈り進んでいきました。
やっぱり人手が有り難い、昔ながらの稲作です。
そして、普段の生活でなかなか体認する機会が減ってきている「自然の音、土の感じ、作物に触れる感覚」を皆で感じられたのが、一番の収穫だったのかもしれません。
4歳になる娘、娘の幼稚園のお友だちも、危なっかしい手つきで鎌を持って一丁前に稲刈りをしようとする姿、束ねた稲を運ぶ姿も何とも微笑ましいです。
昔ながらの稲作の共同作業が、色んなものを育んでくれると改めて実感している今年の稲刈りです。
「新米でおにぎり作って、収穫祭しよう!」
と興奮ぎみに話して二日目の作業解散となりました。
さて、、、
まだ残っている稲たちを、お天気と相談しながら刈り終えないといけません。
来週の韓国出張中にしっかり天日干しを終えて、10月5日くらいにうまく脱穀という段取りになると嬉しいのですが。。。
合掌
田んぼの記録:45日育苗で高校生苗を目指す| 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
かなり以前の記録なのですが、頭の整理も兼ねて。
4月12日㈯:種蒔、プール苗床に設置。
5月30日㈯:田植え(総手植え)。
高校生くらいの苗を目指して
昔から「苗八作(なえはっさく)」というくらい、育苗が稲作のかなり重要な部分を占めている、という言葉です。
この漢字で合っているか分かりませんが。。。
除草剤というものが存在しなかった時代の稲作では、田の草と稲の生育勝負、生存競争でコメの出来不出来が決まっていたと思います。
天地自然の理は不偏なので、現代でも除草剤を使わずにコメ作りをするとなると、「田の草に負けない苗に育ててあげないといけない。」というのが、師匠の教えでした。
目標は高校生くらいの苗ということで、今年は、種籾を蒔いてから約45日間を目安に育苗期間を取りました。
※45日間というのは、稲葉光圀さんのご著書を参考にしています。
(田植え前日の苗)
3.5葉くらいになってくれるといいなぁという感じで、育苗していました。
ポットより平箱の方が旺盛だったということ
育苗培土は、無肥料焼土、ピートモス、乾燥オカラのミックスです。
今年は、ポットあたり3~4粒で多めに蒔いたせいか、終盤で若干葉色が薄くなり、肥料切れ(?)のように見えました。
1箱だけ平箱にバラ蒔きした分が、生育が良く、田植え後の活着や分げつも旺盛だったので、来年は平箱だけにしても良いかも、と考えたりもしています。
(田植え直前。右:ポット、左:平箱)
しかし、色々と試行錯誤したり、実験するのが面白いので、収穫まで終えた時点で総括してから来年のことを考えようと思います。
合掌
人が集う昔ながらの稲作 | 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
才無きを憂えず
才の恐ろしさを知れ
寺田一清『森信三先生 一日一語』より
『夜話』や『報徳記』を読むと二宮尊徳翁も、
天賦の才ではなく、「恩に報いようとする心」「自己の立場で出来る限りの実践」を尊んでいます。
「才の恐ろしさ」というのは、才あるが故に招いてしまう驕り高ぶる心、才無きものを低く見てしまうようなことを指摘しているのだと思います。
才能は自分の努力ではなく、天賦のものであるという謙虚な心でありたいです。僕は大した才能ありませんが(笑)。
今年は実家の商い(福岡で小さな商社)が忙しく、なかなかこのブログを更新していませんでした。やっと落ち着いたので、長崎平和祈念式典の中継を聞きながら、田んぼの記録をまとめています。
人が集まる田
(田んぼ横の小川で魚釣りをする子ら。絡んだ釣り糸を必死にほどくオッチャンの僕)
1年目は、東京と宇部を毎週行き来しながら、親戚の伯父さんや長野にいる田んぼ師匠のアドバイスのおかげで「何とかやった」無農薬稲作でした。
「半農半あきない」と称して本格始動した昨年は、初めて育苗から取り組み、倒伏を免れ、少ないながらも何とか収穫ができました。
そして、3年目の今年は神宮「お伊勢さん」に繋がる品種、イセヒカリに取り組み、親戚から新たに任せていただいた小さな田も加わるという環境になっています。
さらに、今年は、福岡から田植えに駆けつけてくれる方、地元宇部で知り合った方など、これまでに比べると多くの皆さんに参加していただけました。
・サイト製作をお願いしているウェブ関係の方とご家族
・妹が英会話を習っているアメリカ人女性
・自然あふれる環境と農作業に興味があるという2児の母
様々な立場の皆さんに参加いただき、今までに増して賑やかな稲作になっています。
道具の進歩の代償として、段々と人間関係の分断、人の孤立化が進んでしまっている現代です。
そのような流れにあって、「本質的なコミュニケーションの場」が、再び人と人を結んでくれるものだと思います。
同じ作業で汗を流し、自分に出来る役割を地道に行い、互いに思いやり、自己に繋がる先祖の命を感じられる場が
、「本質的なコミュニケーションの場」の一つではないでしょうか。
そして、「昔ながらの無農薬稲作の田」が、その「本質的なコミュニケーション」の場であるという直感しています。
そんな理想を実現したいという思いもあり、「半農半あきない」に取り組んでいます。
田植え直前のイセヒカリ苗の様子から、その後の生育状態の写真、除草風景の写真などを時系列でご紹介しようと思ったのですが、思いのほか文章量が増えてしまったので、今回はここで打ち止め、次回の更新で写真アップしようと思います。
合掌
通信部隊の生活開始 | 「通信部隊の裏方話」 ジイちゃんの戦争体験記 その3
釜山から鉄道で山西省太原市。そして、通信部隊の生活開始。
(前回まで…釜山から鉄道に乗り、真夜中に北朝鮮と中国の国境を通過。)
再び乗車二泊の後、早朝に大原に到着したように記憶している。
私は防寒服を装着していたが、北支の寒気は想像以上に厳しく、寒いというものではなく肌を刺すように痛い寒さである。
我々の電信第九連隊は、大原の城内から歩いて約30分の位置にあったように覚えている。到着したその日はお客様扱いであったが、翌日からは通常の内務班生活が始まり、初年兵教育も正式に開始された。
教育は送受信術で、他に学科があり、歩兵部隊のような戦闘訓練は週一回程度で、銃剣術や、たまに軍事教練がある程度であった。
この点、通信部隊の無線班に編入されたことは一応死から少しは遠い位置におかれたと感謝していた。
しかし、内務班(=通信部隊の無線班)も軍隊であることに変わりなかった。
内務班での生活は、話では聞いていたが、人間的な扱いはほとんどされず、僅か1年先に入隊したものが教育の名のもとに、僅かな間違いでも色々な方法で痛めつけ、全く人権を無視した行為を楽しみのようにして行っていた。
将校や下士官は、これを見てみぬふりをしていた。こんな行為が真に軍人精神向上に役立っていたのであろうか。
ジイちゃんは、僕が大学3年だった1999年12月に、78歳で亡くなりました。
したがって、初年兵として入隊した1943年当時、22歳だったことになります。
成人とはいえ、新卒社員くらいの年齢の人間が、経験したことが無いような極寒の中、日本から1,000km以上も離れた見知らぬ大陸の奥地に連れていかれる、という状況です。
「生きて再び祖国の地を踏めるのか?」
釜山からの長距離鉄道の中で、そんな不安や恐れ、諦めが当時のジイちゃんにも去来していて当然だったと想像します。
そして、通信部隊への配属で少しホッとしたのも束の間、目の前に繰り広げられる軍隊の日常に対し、ジイちゃんは、到底納得のいかない思いを抱いていたのが分かる場面です。
話に聞いていたこと、頭では分かっていたつもりだったことでも、実際に自分がそのような環境に置かれたときの心境は、体験した者にしか分からないことです。
その意味では、戦争を体験していない僕ら世代は、どんなに頑張っても「本当の意味では同じ心境、思想に至れない」といえると思います。
だからこそ、戦争の事実を偏ることなく知り、できる限りの想像力をもって想いを馳せ、感受性を磨き続けることを大切にしていきたいです。
合掌