MQ会計を学ぶため
MQ会計を学ぶため松山へ
「経営のための会計を学ぼう」ということで、今年から兄とMQ会計を勉強しています。
それで、近県で学びの機会がある場合には、積極的に参加をするようにしています。
小倉のお客さんを訪問してから、フェリーで松山へ
日中に小倉のお客さんや、知り合いの経営者の方を訪問し、色々と参考になるお話を聞かせていただきました。
その後、夜9:55小倉フェリーターミナルから乗船し、翌朝5:00に松山観光港着。
※早朝4:00には二等客船の明かりが灯り、意識朦朧としながら支度しました。
ちょっと時間があったので…
(あいにくの天気でした。)
6:00営業開始という道後温泉本館を訪問し、頭をスキッとさせました。
松山には以前来たことあったのですが、初の道後温泉でした。
(風呂上がりに温かいお茶と坊ちゃん団子をいただきました。)
細部へのこだわりや、色んな工夫がなされており、単に温泉に入るだけでなく一つのテーマパークに行ったような印象を受けました。
合掌
イセヒカリの生育記録写真 | 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
イセヒカリ、その後の育苗進捗
大阪への出張や福岡での研修と、結構忙しい5月でした。
5月30日(土)に、総勢25名くらいで田植えが終わったのですが、田んぼに植える前の生育記録です。
5月1日(育苗18日目)
5月5日(育苗22日目)
5月14日(育苗31日目)
5月24日(育苗41日目)
5月28日(育苗45日目)※田植え2日前。
(左:ポット、右:平箱。平箱が旺盛。)
(根はガッチリ張っていて、剥がすのに大変な力が要ります。)
最後はちょっと肥料(乾燥オカラ)切れのようになったのが、来年に向けた課題です。
種蒔粒数を3~4粒で少し欲張ってしまったのが、原因かもしれません。
合掌
大事な田を任される。 | 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
大道は文字の上にある物と思ひ、
文字のみを研究して、学問と思へるは違り、
文字は道を伝ふる器械にして、道にはあらず、
然るを書物を読みて道と思ふは過ちならずや、
道は書物にあらずして、行ひにあるなり。
論理的に饒舌に説明できることより、黙々と実践する自分でありたいと思っています。
単に、口下手なだけかもしれませんが(笑)
種蒔後20日を経過…
イセヒカリの生育状況です。
GW中、晴天と雨天が適度にありました。
晴天でも25度くらいの丁度いい気温だったせいでしょうか?
グンと力強い感じになってきました。
大事な田を任される。
親戚の伯父さんに借りている我が家の田んぼには、山から一番の水が引けます。
水口(みなくち:水の入り口)は、水が冷たいので生育が遅れる傾向がありますが、
有難い環境です。
そして、水は我が家の田を経て、すぐ下の田(親戚の方が耕作中)に入って行きます。
コメの品種が違ったり、田植え時期が微妙にずれているので、過去2年間、水管理という点で迷惑を掛けているのではと心配していました。
そんなことを悟ってか、伯父さんが親戚の方に話してくれ、下の田を今年からやらせてもらえることになりました。
確認とお礼の電話をした際、
「道路整備で小さくなってしまったけど、ジイちゃんが大切にしてた田だった。」
ということを聞きました。
ホントに小さい2畝位の広さですが、そういう大切な思いを持って耕作されていた田を、僕に任せてくれることに大変ありがたい気持ちになりました。
一礼して、草刈を…
そして、それから数日後、下の田に初めて入り、その田を大切にされていたというお爺さんのことを思い一礼。
畔の草を刈らせてもらいました。
スッキリした下の田を見て、少しお爺さんも喜んでくれた気がしました。
合掌
レンゲ刈り | 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
翁曰く、
千円の資本にて、千円の商法をなす時は、
他より見て危うき身代と云ふなり。
千円の身代にて八百円の商法をする時は、
他より見て小なれど堅き身代と云ふ。
此の堅き身代と云はるる処に、味はひあり益あるなり。
いたずらに規模の大を追わないで、自分の身の丈(=分度)に合った年々歳々の商売を続けていくことで「木の年輪のように成長していく企業」を目指しています。
伊那食品工業の塚越会長が言う「年輪経営」です。
イセヒカリの生育状況は…
今年、初めて挑戦しているイセヒカリです。
育苗約20日を迎えた状況です。
(苗場設置後のトラブルなく、順調に見えます)
GW初日。
田んぼの畔草とレンゲ刈りをしました。
(僕の手にかかる運命にあるレンゲたち。。。)
この地域も段々と田んぼの時期が近づいており、田んぼに人の手(といっても、トラクターなど機械ですが)が入り始めます。
これまで繁茂していた雑草が刈られ、畔が塗られ、田んぼの準備が進んでいきます。
(今年も、藤の花が見事です。)
一心不乱に草刈機をブンブン言わせていると、途中から、田んぼをお借りしている親戚の伯父さんが、畔草刈りの手伝いをしてくれました。
そして、帰り際、
「草刈が上達したーね」
と山口弁で伯父さんがほめてくれました。
半農生活3年目。
教科書で学んでいることは何もありませんが、少しずつ何となく、
自分の身体が覚えていってくれているのかもしれません。
合掌
通信部隊への配属 | 「通信部隊の裏方話」 ジイちゃんの戦争体験記その2
下関から釜山へ、そして配属先の判明
(下関から乗船)翌朝、小雨の釜山に入港、付近の小学校で列車のくるまでの一時を待機、列車到着と共に釜山より乗車出発した。
この列車の中で、初めて我々の行先が北支大原電信第九連隊であることを知らされた。
冒頭の軍歌(※注記)は、我々を受領に来た古参兵の人達が教えてくれた山西派遣隊の隊歌の一節である。
私は歌が好きであるためか、五十年経った今でも不思議に忘れることがない。戦友会や何かの時に歌うが、一般の旧式軍関係で北支にいた人でも知らない人が多く、他の人が歌っているのを聞いたことがない。
いずれにしても、真夜中に鴨緑江の大橋を渡り、白銀一色の満州の地に入った時は、なるようにしかならない的な気持ちで、運を天に任せる以外にはないと、かえって気持ちが楽になったような気持であったのも事実である。
※注記:寄稿文冒頭に引用した軍歌
火の雲走る大陸の
空に聳える山幾重
汗と血潮にそめなえて
行け山西の地の限り
「北支」は、今で言う「中国・華北地域」のようです。
グーグルで調べると「大原」というのは、恐らく「山西省太原市」です。
つまり、ジイちゃんは、釜山から中国山西省太原市を目指して、鉄道で移動したと思われます。
さらに、釜山から山西省太原市までは、北京を経由して1500km以上の距離がありそうなので、鉄道での移動はかなりの長時間です。
なお、真夜中に通過したと記録している「鴨緑江(おうりょくこう)」は、中国と北朝鮮の国境となっている川です。
1月の入隊から現地への移動ですので、この時期のこの地域は極寒であったことは想像に難くありません。
僕が仕事でソウルに行っていた時、1月2月はソウルでも氷点下10℃以下で、顔が痛いくらいの寒さだったと記憶しているからです。
「通信部隊だから、前線部隊に比べると死から遠いところにいた」
そんな印象で、ジイちゃんの話を聞いていたと記憶しています。
しかし、鴨緑江を渡ったときの「運を天に任せるしかない」という当時のジイちゃんの気持ち、山西省太原市までの距離、極寒の中の鉄道移動、戦争という状況下では「通信部隊だから死ぬことはない」というような安穏としたものでは到底なかったと、今更ながら感じています。
合掌
2015年 3月の育苗関連作業 | 半農半X(エックス)実践3年目 in 山口宇部
既に4月も月末に差し掛かり、ゴールデンウイーク目前になっています。
稲作を始めてから、ゴールデンウイークは農作業で過ごすというのが、定着しつつあります。
気候の良い時期なので、農作業で適度な汗を流しながら、スゥーと風が首元を撫でていく爽やかさが心地よいです。
肉体的な疲労感は残る一方で、土や草木に触れているので心的ストレスは全く残らないという感じがします。
ブログにアップできていなかった作業記録
2年目の昨年より2週間早く育苗準備に取り掛かりました。
40日~45日間育苗した成苗を田に移植するというのが、今年の大きな目標であるためです。
- 培土作りのため、混合作業。(3月30日)
・無肥料焼土、ピートモス、乾燥おからを水で混合。
・ビニール袋に詰め、ブルーシートを被せる。
※ここから約2週間、乾燥オカラの分解、発酵を待ち育苗用培土とします。
- 種籾の温湯処理。(3月30日)
・イセヒカリ種籾を60℃×8分で処理。
(今年初挑戦のイセヒカリ種籾。コシヒカリより大粒な気がします)
(温湯処理器というのがあるらしいですが、我が家は台所で!)
※処理後、すぐに地下水(この時は23℃)で急冷、種籾が「ハト胸」になるまで、ここから10日間ほど「低温浸種(15℃くらい)」に入ります。
自分で育苗をするのが初めてだった昨年に比べ、少しは余裕持ってできたような気がします。
合掌
招集から出征 | 通信部隊の裏方話 | ジイちゃんの戦争体験記その1
ジイちゃんの戦争体験記
家族親族が誰もその存在を知らなかった、亡くなった祖父の戦争体験記を、
ひょんなきっかけで僕が発見してしまいました。
発見者の責任??
その戦争体験記は、16年前に他界したジイちゃんが、生前、あるところに寄稿していた文章でした。
これは何かのメッセージやろうと思い、僕なりに清書(なるべく読みやすいように、句読点や接続詞を修正するくらい)して、ここに載せていこうと思います。
招集から出征
火の雲走る大陸の
空に聳える山幾重
汗と血潮にそめなえて
行け山西の地の限り
昭和18年(1943年)1月、私は、初年兵として現地入隊するため、広島に集結させられた。
三日間の広島滞在後、広島駅から夜行列車に乗って下関に入り、釜山行の連絡船「金剛丸」に乗り込んだ。
「金剛丸」では、船底の三等船室に200人くらいの兵隊が、スシ詰めの状態で押し込まれた。エンジンの轟音で眠れぬ一夜を過ごした。
「これで、私も再び祖国の土が踏めなくなるのか。」
と心の底から母や弟に別れを告げつつも、再会を念じながら遠く離れゆく祖国の灯が見えなくなるまで、真暗な玄海の船上から永遠の別れを告げた。
招集から出征している場面です。
冒頭の軍歌は、あとで説明が出てくるのですが、これが最初に出てくるあたりは、
歌と当時の経験がセットになっていることを思わせます。
終戦の2年前、1943年の1月に初年兵として出兵したようです。
当時、彼が何歳だったのか知りたかったので、母に電話したのですが、
分からないという事でした。
※後日、調べて連絡をもらうことに…。
その年の正月は、家族でどのように過ごしたのでしょうか?
当然、母や伯父さんが生まれる前の話なので、広島に招集される前に「どこで何をしていたか。」ということを知る人は、もういません。
なお、題名に「通信部隊の裏方話」とあるのように、ジイちゃんは入隊後、通信部隊に所属したようです。
僕が子供のころ、本人や母から「無線会社の社員だった」というのは聞いていたので、そのような配属になったのも自然の流れだったのだと推測されます。
そして、出征された多くの方々がそうだったように、ジイちゃんも、
「生きて日本に帰れないかもしれない。」
という不安と、
「でも日本に帰って、母や弟と再会したい。」
という至極当然な願いを持って、釜山に向かうスシ詰の船中にいたのだと思います。
そんな船中で眠れなかったのは、エンジンの轟音だけが原因ではなかったろうと想像されます。
合掌