古事記をちょっと学ぶ
人にして徒に目前の利を謀らば、則ち禽獣となんぞ択ばんや。
人の人たる所以は推譲にあり。
此に一粒粟あり。
直ちにこれを食えば則ちただ一粒のみ。
若し推して以て之を種(う)え、秋実を待って食えば、
則ち百粒を食うも、猶お且つ余りあり。
是れ則ち、万世不易の人道なり。
『二宮尊徳 一日一言』(寺田一清)より
尊徳の教えで重要なものの一つに「推譲(推して譲る)」という言葉があります。
夜話を読むと、尊徳は、単に「自分の為に備蓄したり、貯金する」という意味だけでなく、「余財を他者に譲る、弱者に譲る」という「他に向けた推譲」にも務めるべきと説いています。
この推譲でふと思い出したのが、多少の気を遣うメンバーで食事する場面。
皆で取り分ける料理で、よく「最後の一つ」が残っていることがありますよね。
「遠慮の塊」なんて言ったりすると思うのですが、これは実は「遠慮」ではなく「推譲」なのではないかということ。
国民の殆どが農業を営んでいた時代、「推譲」という言葉が一般的だったかは分かりませんが、日本人はごく自然に「推譲」を実行していて、その名残が今でも先述の場面などに出ているのかも。
と考えたりしました。
でも、食べたいのに手を出さないという気持ちの時もありますね(笑)
やっぱり遠慮???
そういえば、よく見ると「遠慮=遠くを慮る」で、なかなか良い言葉の組み合わせです。
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今週末は宇部に帰らず、以前から知人に誘われていた「古事記に学ぶ会」に参加するため銀座に向かいました。
夕方からの予定で時間があったので、久しぶりに東京国際フォーラムの「相田みつを美術館」に行ってみました。
偶然、坂村真民さんの特設展もやっており、ちょっとテンションが上がりました。
ここは一人で行くのが良いですね。
じっくりと見ているとあっという間に時間が過ぎ、古事記を学ぶ会に移動。
湯島天満宮から小野善一郎さんを講師に迎え、今年は初めての勉強会だったようです。
最初は神道と「祓え」の意味。
そして今回のテーマである「天の岩戸開き」についての解説でした。
小野善一郎先生が熱く語られたのですが、非常に感動し、言葉になりませんでした。
神道というと、どうしても仏教やキリスト教といった宗教と同列に比較論的に語られますし、実際そう考えていたのですが、
・唯一絶対神というものがない。もちろん偶像崇拝もなし。
・まず天地ありき。※キリストやブッダのように、崇拝する神の存在はありません。
・天照大御神=先祖=自分自身であるということ。
掻い摘むとこんな感じです。
神道は宗教とはちょっと違うな、という印象です。
自分自身の心に天照大御神(=祖父母含めた先祖)がおり、その本心を曇らせるのが、悪い心持(人を羨んだり、悪口を言ったり、卑屈になったり等々)で、それを日日払うのが「祓え」ということらしいです。
日本人は古来、神社にお参りしたり、「祓え」をすることで、その本心に立ち返ろうとしてきた。
それが伊勢神道ということなのだそうです。
ちなみに、この悪い心持のことを、「異心(ことこころ)」と呼ぶそうです。
なお、「天の岩戸開き」の岩戸は、自分自身が作り出している「異心」を隠喩しているということ。
二宮尊徳の教えを人生の指針としているのですが、数年前から、仏教より神道が僕にはしっくり来ていて、今回、小野善一郎先生のお話を伺って、その気持ちがより固まりました。
亡くなった祖父母含めた先祖に日々感謝し、大事に思うこと。
それがそのまま自分自身を大事に思うことであるということ。
自我我欲を反省し、それを祓い除ける努力をすることで、異心という岩戸は開かれ、本来の清明な本心が表れる。その清明な本心が自分自身の人生を、そして後に続く子々孫々の人生を明るく照らすということ。
小野善一郎先生に、自分が求めていたものの入り口を提示してもらえた思いです。
36歳となる今年。
後半生の1歳捉えているのですが、大きな学びと有難い気づきをもらえた忘れられない出会いとなりました。
神道について、古事記について知ることは、日本人としてのルーツを知ること、これからの日本人がどうあるのが幸せか、を考えるきっかけになると思います。
合掌