「半農半あきない」実践録

「自給農」「あきない」を中心とした、日々の所感実践録

通信部隊の生活開始 | 「通信部隊の裏方話」 ジイちゃんの戦争体験記 その3

釜山から鉄道で山西省太原市。そして、通信部隊の生活開始。

 (前回まで…釜山から鉄道に乗り、真夜中に北朝鮮と中国の国境を通過。)

 

再び乗車二泊の後、早朝に大原に到着したように記憶している。

 

私は防寒服を装着していたが、北支の寒気は想像以上に厳しく、寒いというものではなく肌を刺すように痛い寒さである。

 

我々の電信第九連隊は、大原の城内から歩いて約30分の位置にあったように覚えている。到着したその日はお客様扱いであったが、翌日からは通常の内務班生活が始まり、初年兵教育も正式に開始された。

 

教育は送受信術で、他に学科があり、歩兵部隊のような戦闘訓練は週一回程度で、銃剣術や、たまに軍事教練がある程度であった。

この点、通信部隊の無線班に編入されたことは一応死から少しは遠い位置におかれたと感謝していた。

 

しかし、内務班(=通信部隊の無線班)も軍隊であることに変わりなかった。

内務班での生活は、話では聞いていたが、人間的な扱いはほとんどされず、僅か1年先に入隊したものが教育の名のもとに、僅かな間違いでも色々な方法で痛めつけ、全く人権を無視した行為を楽しみのようにして行っていた。

 

将校や下士官は、これを見てみぬふりをしていた。こんな行為が真に軍人精神向上に役立っていたのであろうか。

 

 

    

ジイちゃんは、僕が大学3年だった1999年12月に、78歳で亡くなりました。

したがって、初年兵として入隊した1943年当時、22歳だったことになります。

 

成人とはいえ、新卒社員くらいの年齢の人間が、経験したことが無いような極寒の中、日本から1,000km以上も離れた見知らぬ大陸の奥地に連れていかれる、という状況です。

 

「生きて再び祖国の地を踏めるのか?」

 

釜山からの長距離鉄道の中で、そんな不安や恐れ、諦めが当時のジイちゃんにも去来していて当然だったと想像します。

 

そして、通信部隊への配属で少しホッとしたのも束の間、目の前に繰り広げられる軍隊の日常に対し、ジイちゃんは、到底納得のいかない思いを抱いていたのが分かる場面です。

 

話に聞いていたこと、頭では分かっていたつもりだったことでも、実際に自分がそのような環境に置かれたときの心境は、体験した者にしか分からないことです。

 

その意味では、戦争を体験していない僕ら世代は、どんなに頑張っても「本当の意味では同じ心境、思想に至れない」といえると思います。

 

だからこそ、戦争の事実を偏ることなく知り、できる限りの想像力をもって想いを馳せ、感受性を磨き続けることを大切にしていきたいです。

 

合掌