「半農半あきない」実践録

「自給農」「あきない」を中心とした、日々の所感実践録

招集から出征 | 通信部隊の裏方話 | ジイちゃんの戦争体験記その1

ジイちゃんの戦争体験記

家族親族が誰もその存在を知らなかった、亡くなった祖父の戦争体験記を、

ひょんなきっかけで僕が発見してしまいました。

 

 

 

発見者の責任??

その戦争体験記は、16年前に他界したジイちゃんが、生前、あるところに寄稿していた文章でした。

 

これは何かのメッセージやろうと思い、僕なりに清書(なるべく読みやすいように、句読点や接続詞を修正するくらい)して、ここに載せていこうと思います。

 

 

招集から出征

火の雲走る大陸の

空に聳える山幾重

汗と血潮にそめなえて

行け山西の地の限り

 

 

昭和18年(1943年)1月、私は、初年兵として現地入隊するため、広島に集結させられた。

 

三日間の広島滞在後、広島駅から夜行列車に乗って下関に入り、釜山行の連絡船「金剛丸」に乗り込んだ。

 

「金剛丸」では、船底の三等船室に200人くらいの兵隊が、スシ詰めの状態で押し込まれた。エンジンの轟音で眠れぬ一夜を過ごした。

 

 

「これで、私も再び祖国の土が踏めなくなるのか。」

 

と心の底から母や弟に別れを告げつつも、再会を念じながら遠く離れゆく祖国の灯が見えなくなるまで、真暗な玄海の船上から永遠の別れを告げた。

 

 

招集から出征している場面です。

 

冒頭の軍歌は、あとで説明が出てくるのですが、これが最初に出てくるあたりは、

歌と当時の経験がセットになっていることを思わせます。

 

 

終戦の2年前、1943年の1月に初年兵として出兵したようです。

 

当時、彼が何歳だったのか知りたかったので、母に電話したのですが、

分からないという事でした。

※後日、調べて連絡をもらうことに…。

 

 

その年の正月は、家族でどのように過ごしたのでしょうか?

 

当然、母や伯父さんが生まれる前の話なので、広島に招集される前に「どこで何をしていたか。」ということを知る人は、もういません。

 

 

なお、題名に「通信部隊の裏方話」とあるのように、ジイちゃんは入隊後、通信部隊に所属したようです。

 

僕が子供のころ、本人や母から「無線会社の社員だった」というのは聞いていたので、そのような配属になったのも自然の流れだったのだと推測されます。

 

 

そして、出征された多くの方々がそうだったように、ジイちゃんも、

 

「生きて日本に帰れないかもしれない。」

 

という不安と、

 

「でも日本に帰って、母や弟と再会したい。」

 

という至極当然な願いを持って、釜山に向かうスシ詰の船中にいたのだと思います。

 

そんな船中で眠れなかったのは、エンジンの轟音だけが原因ではなかったろうと想像されます。

 

合掌